岩内 いわない Iwanai
北海道後志地方岩内町・共和町
アイヌ語表記: Iwaw-nay・Iwa-nay・Ye-o-nay・Iyaw-nay
永田の項は三つの訳を並べて「孰が是なるを知らず」と結び、そのほかに iwa-nay の読みも行われている。更科源蔵はこれを「非常に問題が多い地名」と呼ぶ。諸説が一致するのは、噴煙を上げる硫黄山との関わりだけで、これは文化年間の記録に繰り返し現れ、硫黄と明礬を馬で運び下ろして岩内から浪花へ送っていたという。
位置
42.9798, 140.5148 · 座標:OpenStreetMap Nominatim, 2026-09-10。岩内町 の位置。 OpenStreetMap で開く
指示対象
- 集落 岩内町。後志第四の都市。岩内郡は現在の岩内町と共和町からなる。岩内町の領域の半分以上は雷電山地の切り立った山々で、岩内平野のかなりの部分は共和町に属する。岩内の名が最も広い範囲に及んだのは明治32年の岩内支庁で、泊村・神恵内村・倶知安町・京極村までを含んでいた。
- 川 川。現在の岩内町に「岩内川」と呼ばれる川筋はない。現代の地名解が比定するのは支流にポンイワナイ川をもつ運上屋川で、著者は共和町の堀株川を主張する。
語源分析
iwaw-nay
イワゥナイ ‘硫黄川’ 定説提唱者: 舊地名解(永田方正が引く) (the older place-name glosses, as cited by Nagata Hōsei)
永田は古い地名解として報告する。「舊地名解に「イワウナイ」(Iwau nai)なり硫黄川の義、此山處々に硫黄多きを以て名なづくと」とし、「孰が是なるを知らず」と続ける。どの川がそれなのかも知らないと述べている。四説のうち最も有力とされるのがこの説である。
根拠
- 文献
文化年間の記録は岩内を噴煙を上げる硫黄山と結びつける。『東海参譚』(文化3)「イワナイ、硫黄山有て常に煙立。信陽の淺間山よりも甚だし。明礬も爰より出る。」、『未曾有後記』(文化3)「いわない山に煙たつ。(中略)是山硫黄多く産す。年々浪花へ運送す。」、『遠山村垣西蝦夷日誌』(文化3)「巳午の方に当り道法凡四里程に硫黄山有之、前々より製法所相立、当所に馬にて附替候。」
地名と硫黄山との結びつきは文化年間以降の記録によく現れる。どの川がその名を負ったかは、この訳を報告する最も古い資料自身が留保しており、この読みのほかに三つの説が並んでいる。
iyaw-nay
イヤウナイ ‘熊肉を乾す澤’ 提案- iyaw ‘熊の肉を樹皮に掛けて乾すこと’
- nay ‘澤’
提唱者: 永田方正 (Nagata Hōsei)
永田の項は「岩内郡「イヤウナイ」(Iyau nai)熊肉を乾す澤、山中にて熊を殺し其肉を樹皮に掛け乾すを「イヤウ」と云ふ」。
反論
- イヤウで「熊肉を乾かす」という言葉があるとは聞いたことがない。辞書にも載っていない。 — zenibako_trek zenibako_trek…
第一要素はここで参照したどちらの辞書にも記録がない。
ye-o-nay
イェオナイ ‘軽石多き川’ 提案- ye ‘軽石・膿’
- o ‘多い’
- nay ‘川’
提唱者: 永田方正 (Nagata Hōsei)
永田は一説として挙げる。「一説に「イェオナイ」(Ye-o-nai) 軽石多き川、海濱より岩内川を遡ること凡二里許の處に軽石多く川中に満つ故に名なづくと」。更科源蔵も同じ読みを「アエオナイ」として伝える。
反論
- イェで「軽石」というのも辞書にはない。Ye は〈膿〉の意味であって、火山の膿、すなわち溶岩。溶岩が固まった石なので軽石。と考えたのだろうか。 — zenibako_trek zenibako_trek…
第一要素の〈軽石〉の意味は記録されておらず、そこに至るには提唱者が明示しない連想の連なりを要する。
iwa-nay
イワナイ ‘岩山川’ 提案提唱者: バチェラー博士 (John Batchelor)
著者は、おそらくバチェラー博士が最初に提唱し、知里真志保氏も追従していると留保をつけて述べる。更科源蔵も「イワ・ナイで山あいの川の意味にも解される」と、現に行われる読みとして伝える。
iwa も nay も提案どおりの意味で辞書にある語で、複合の形も普通である。この読みには、この場所に特に結びつく要素がない。バチェラーへの帰属も記事自身が留保をつけている。
iwaw-nay
イワゥナイ ‘硫黄川’ 提案提唱者: zenibako_trek(小樽銭函地名歴史研究会) (zenibako_trek (Otaru Zenibako Place-Name and History Society))
著者は硫黄の読みを保ち、川のほうを動かす。イワナイは移動した地名である。永田は、運上屋は御鉾内にあるのに岩内場所と称するのは、この場所のアイヌが「イワオナイ」の出身だからだと記録している。同じことが小樽内・寿都・釧路にも起き、運上屋は交易相手に名を負う。岩内アイヌは自分たちの川について、羊蹄山より落ち、丸木舟で二日遡り、余市への道に通じる川を語っている。その記述に合うのは堀株川である。明治初頭に余市から稲穂峠を下ってきたホーレス・ケプロンは堀株川を「イワナイ川」と呼び、その谷の幅を八マイルと測っている。『志利辺津日誌』は堀株川上流の支流を「イクシユンケイワヲヘツ」と記録し、案内人はこの辺の川々は皆イワヲ岳より落ち来るが、どれが本流か分からないと説明する。岩内アイヌは堀株川河口に住んでおり、堀株神社遺跡と堀株遺跡からアイヌ期の墓・埋葬品・貝塚・鮭漁の銛・漆器・寛永通宝が出土している。彼らは現在の岩内港に移され、地名も一緒に移動した。
根拠
- 文献
永田のオㇺナイの項が移動を明言する。「「オムナイ」運上屋と称せずして岩内運上屋と称せし所以は、此場所のアイヌは「イワオナイ」の出身なればなり。」
- 地形
硫黄山はイワオヌプリを中心としたニセコ連山で、岩内港から約15km、文化年間の記録の「四里」に一致する。運上屋川も岩内平野のどの川もそこを水源としておらず、イワオヌプリは分水嶺の向こう側にある。堀株川は岩内平野のほぼ全体を流れ、その上流の支流はニセコ連山から落ちてくる。
- 考古
堀株のアイヌ期の出土は厚く、岩内港側の東山円筒文化遺跡は縄文時代のものである。アイヌ文化時代の拠点は堀株のほうにあった。
反論
- 著者は自説に不利な点として、堀株川上流のビラ川支流群、すなわちイワヲナイの水源がイワオヌプリに微妙に届いていないことを記す。直接的な水源はワイスホルンになる。これに対し、ニセコ連山全体を「イワナイ岳」と呼んでいた傾向が見えると答える。江戸時代に名前が出てくる山名はチセヌプリと「イワヲ岳(硫黄山)」だけで、ニセコアンヌプリは見えず、ニトヌプリは北大スキー部員の命名、ワイスホルンの三角点名称は「岩尾登」である。 — zenibako_trek zenibako_trek…
- 尻深から現在の岩内に移動したことを決定的に裏付ける史料は未だ見つかっていない、と著者自身が述べ、状況証拠を並べて妥当と見るにとどめる。 — zenibako_trek zenibako_trek…
硫黄の読みそのものは定説である。新しいのはそれを結びつける川と移動の筋書きで、これは著者自身が決定的でないと述べる状況証拠に依る。
用例
- 岩内 文献 Genroku era 元禄郷帳
岩内の名が初めて見えるところ。それ以前この地は「尻深」と呼ばれ、正保国絵図(正保1)に「シリフカヱソ」、皇圀道度図・ゑぞの絵図(寛文8)・松前蝦夷地之図に「シリブカ」が見えても岩内は出てこない。「岩内」は18世紀になって和人支配が強まり始めて以降に出てくる。
zenibako_trek… - イワナイヘツ 文献 Edo period 再航蝦夷日誌
イワナイヘツ 前に志るす川也。又此川、二日路も丸木舟にて上り、山を一日越て、川まヽヨイチへ出る道も有る由也。
丸木舟で二日遡り、さらに山を一日越えて余市に出る川。運上屋川は遡ってもその方には行かず、丸木舟で遡るほどの太さもなく、水源まで二日もかからない。
zenibako_trek… - イワナイ川 文献 Edo period 再航蝦夷日誌
運上屋前に川有。イワナイ川と云。此川源シリベツ山より落るよしにて遠し。
松浦武四郎が岩内港のイワナイについて岩内アイヌに尋ねると、川はシリベツ山(羊蹄山)から落ちるという答えが返ってきた。港のどの川もそこには届かない。堀株川であれば水源の倶知安峠を越えると目の前に羊蹄山が見える。
zenibako_trek… - イワヲナイ 文献 Edo period 西蝦夷日誌
イワナイの名義はイワヲナイにて、硫黄澤也。其地南五丁なる川也。此地は本名ヲムナイ也。此所土人昔よりイワナイに住る故、惣名となる也。
『竹四郎廻浦日記』にも「イワナイは此処より南の川の名なるを、当場所の惣名と今はする也。」と短く同じことがある。著者は、御鉾内川と岩内川は東西の位置関係にあり「南」というのはおかしい、武四郎はアイヌから単に「南」としか聞かず距離は自分で補ったのかもしれない、と述べる。
zenibako_trek… - 岩内川 地図 Kaei era 西蝦夷地道中見取図
道路や家々を一軒ずつ描くこの図は「岩内川」をホリカップのところに置いている。
zenibako_trek…
関連地名
- 運上屋川 うんじょうやがわ — 更科源蔵・山田秀三・榊原正文がいずれもイワナイに比定する川で、支流にポンイワナイ川をもつことが根拠。下流は今は野束川に入るが、古い図では直接海に注いでいた。著者の異論は長さで、水源はイワオヌプリに届いておらず、イワオヌプリは分水嶺の向こう側にある。硫黄山道がこの川沿いを通るので「イワオヌプリに行くための川」とは考えられるが、硫黄を掘り出したのは和人であり、それよりずっと前から岩内の地名があることに留意しなくてはならない、とする。 zenibako_trek…
- 硫黄川 いおうがわ — 倶知安の川で、イワオヌプリを水源とする。アイヌ語名は「イワオナイ」もしくは「ペンケイワオナイ」、penke-iwaw-nay〈上流の硫黄川〉で、ニセコアンベツ川が panke-iwaw-nay〈下流の硫黄川〉。イワオヌプリを水源とする川はこの二つしかない。シユクセエヘンクルの砦と屋敷はこの川の畔、倶知安駅裏手の旭ヶ丘公園と大仏寺のあたりにあり、著者は倶知安起源説を検討する。退ける理由は年代で、ワジマ家の勲功は寛保年間(1740年代)、岩内の地名の初出は元禄年間である。 zenibako_trek…
- 御鉾内 おむない — 運上屋のあった場所。現在の岩内町万代。 zenibako_trek…