銭函 ぜにばこ Zenibako
北海道後志地方小樽市銭函
北海道の難読地名・面白地名がほとんどアイヌ語由来であるなかで、銭函は和名でありその要素も明快である。提出された読みは、アイヌ語説も含めて、なぜ銭の箱という言い方が選ばれたのかについての提案か、この名が銭の箱を指すことの否定かのいずれかである。
位置
43.1435, 141.1597 · 座標:OpenStreetMap Nominatim, 2026-09-10。銭函 の位置。 OpenStreetMap で開く
指示対象
- 集落 石狩平野が開ける海岸にある小樽市東部の地区。明治初頭は「銭箱」、「銭凾村」となってからその漢字、平成初期あたりから「銭函」と書く。幕末の錦絵には「千匣」「前匣」も見え、「ゼニバコ」だけでなく「センハコ」と読む例も多かった。
語源分析
銭箱
ゼニバコ ‘鰊漁で儲けた銭を収めた箱’ 定説提唱者: 『角川日本地名大辞典』ほか
定説。この浜では鰊が大量に採れて漁師たちが儲かり、その儲けを収めた銭の箱が高く積み上がったので銭箱と呼ぶようになったという。『角川日本地名大辞典』は「鯡漁で莫大な利益があがったので和人が銭函と称したと見える」、『北海道駅名の起源』は「当地は昔から鰊漁場として知られ、豊漁のため生活豊かで、漁業家の銭函だというのでこう名付けた」、『地名を巡る北海道』『JR・第三セクター 全駅ルーツ事典』も同趣旨。物理的な箱に触れる例は少なく、「ドル箱」の漁場という捉え方に近い。
反論
- 恵比須屋は享保2年にクッタルシ・オコバチ・有幌、寛政年間までに信香・アツトマリ・熊碓・朝里・張碓に漁場を設け、銭函は一番最後の天保9年で、その開きはおよそ120年である。天明・文化年間の記録は小樽中心部から張碓の礼文塚まで二八小屋が立ち並ぶと記しつつ銭函を飛ばしている。ヲタルナイ運上屋自体が、鰊がたくさん取れるクッタルシへ引っ越している。安政4年に箱館奉行に随行した玉虫左太夫は「当所は番屋なれば茅葺の小屋にて膝を入るるのみにて狭隘を極む」と記し、近習四人と用人一人が奉行に付き添うのみで、外の人数は別家へ投宿した。 — zenibako_trek zenibako_trek…
名は和名で要素も明快であり、争われるのは理由の方である。鰊漁説は事典類が載せ松浦も挙げる説明だが、漁場が設けられた時期と建物の記録はこれに反する。
seni-poko
セニポコ ‘ドングリとホッキ貝の豊富な所’ 提案- seni ‘木の皮が堅く貝のようにめくれる木’
- poko ‘北寄貝’
提唱者: 『銭函郷土史 第一巻』
『銭函郷土史 第一巻』:「セニ(シェニ)で、「木の皮が堅く貝のようにめくれる木」を言い、ポコはポク、パコで北寄貝のことである。石狩から続く樫の原生林(約20km)つまり食料になるドングリと、ホッキ貝の豊富な所の意であり、セニポコがセニハコと永い間言いならされて来たものであろう。」同書は樫とするが、銭函3丁目から5丁目にかけての防風林は柏である。
反論
- カシワの実であるドングリは nisew であり、ニセウとシェニではだいぶ音が違う。貝を表す sey に由来する可能性もある。ホッキ貝は poksey で、和名のホッキ貝はこれを言い慣わしたものである。2つをつなげた nisew-poksey〈ドングリ・ホッキ貝〉は関連性の薄い名詞2つを並べたもので、アイヌ語地名にそのような例はほとんどなく、そこからゼニバコへの道筋も示されない。せめて後半を pok〈下〉と見て nisew-pok-i〈ドングリの木の下の処〉とでも訳したほうが文法的にはましである。同書は張碓や和宇尻についても従来と違う異説を唱えている。 — zenibako_trek zenibako_trek…
「セニ」「ポコ」はいずれも辞書がその語義で載せるアイヌ語ではない。提唱者が指していると見られる nisew〈ドングリ〉と poksey〈ホッキ貝〉はともに辞書にあり、どちらも提唱者の形と音が合わない。名詞2つを並べる形もアイヌ語地名の取る形ではない。
セニハコ
セニハコ ‘崖下の狭い海岸の集落’ 提案提唱者: 「「箱根」「銭函」の地名由来-目からウロコの地名由来」
提唱者:「北海道小樽市銭函(ぜにばこ)は、決してニシン漁で儲けた銭を納める箱に由来するのではない。現地は石狩川河口から続いてきた穏やかな砂浜海岸が終わり、海岸は谷地川を越すと海岸段丘崖下の狭い通路になっている。すなわち、ゼニはセニで、狭いところを意味し、ハコは崖だから、銭函は崖下の狭い海岸の集落と言う事だ。」日本語の要素による解である。
反論
- セニが「狭いところ」を意味するとする根拠がわからない。全国のセニ地名では「瀬西」「迫西」「背荷」などが見つかったものの、狭いところとする例はあまり見つからない。銭函は古くは「センハコ」と呼ばれることも多く、「銭」は「セン」とも「ゼニ」とも読むのに対し「狭」は「セン」とは読まない。「崖の下に入っていく」というのは札幌方面から見た視点であり、当時札幌に和人集落はなく、和人は小樽の入船方面から来た。忍路からオタモイ・高島・朝里・張碓にかけてずっと海岸に崖がせり出しており、人々はその下の狭いところを生活圏にしていた。ところが銭函に来ると急に土地が開け、広大な石狩平野が広がる。旅人の日記もそれを記録しており、そこにあえて「狭いところ」という地名を名付けたとは考えにくい。 — zenibako_trek zenibako_trek…
日本語の要素による読みで、セニを「狭い」とする点にかかっているが、提唱者はその根拠を示さない。読みが前提とする接近方向は現代のものである。
銭箱
ゼニバコ ‘漁をしても税を取られない、獲れば獲っただけ自分の懐に入る漁場’ 提案提唱者: zenibako_trek(小樽銭函地名歴史研究会) (zenibako_trek (Otaru Zenibako Place-Name and History Society))
玉虫左太夫の「運上金外の場所」という記述に基づく。運上金は運上屋に払う税のようなもので、収穫の二割を納めたため鰊の漁小屋を「二八取り」「二八小屋」と呼ぶ。ヲタルナイの運上屋は元々銭函に置かれていたが入船へ引っ越し、その後およそ120年ほど銭函には漁場が設けられなかった。その間ここでの漁は無税であり、獲れば獲っただけ自分の懐に入る。天保9年に恵比須屋が漁場を設け、松浦や玉虫が訪れた頃には二八小屋が立ち並び運上金が取られるようになっていて、名だけがその後に残った。
根拠
- 文献
玉虫左太夫『入北記』:「ゼニハコと申すも村名にあらず。古よりこの所は運上金外の場所にて、ヲタルナイの銭箱と云うことにて村名同様になるたる由」
- 文献
文政4年に完成した伊能図は、天保9年に漁場が置かれる17年前の時点で、銭函に隣の張碓よりも多くの建物を描き、この地を「ヤウシノツカ」ya-us-nupka〈網のある丘〉と称する。運上屋が正式に漁場を開く以前から漁小屋が建っていた。
- 文献
ヲタルナイの運上屋は、ここでの鮭がそれほど豊漁ではなかったため、鰊がたくさん取れるクッタルシ(現・入船町)へ引っ越し、ヲタルナイの地名も同時に移った。銭函に漁場が設けられたのは小樽の漁場の中で最後の天保9年で、最初から約120年後である。
- 文献
建物の記録が描くのは貧しい村である。安政4年の玉虫は番屋を茅葺の狭い小屋と記す。開拓使仮役所が去った後に通ったエドワード・モースは「ねむそうな家が何軒か集まって、ゲニバク[銭函]の寒村をなしている」「今やこの家は滅亡に近く、米は粗悪で」と書いた。小樽市が指定する歴史的建造物は80ほどあるが、銭函には現存するものが一軒もない。
定説の平明な和語要素をそのままに理由だけを入れ替える読みで、運上金外という事実と名とを一文で結ぶ同時代の証言に基づく。伊能図と運上屋の移転の順序もこれを支える。付け加わるのは漁師の側の動機であり、玉虫は「ヲタルナイの銭箱」と呼ばれたことを記すのみで、誰がいつそう呼んだかは述べていない。
Ota-shup kotan
‘砂嘴の所’ 提案- Ota ‘砂’
- shup ‘嘴’
- kotan ‘所’
提唱者: John Batchelor
この地のアイヌ語名は Ota-shupkotan で「砂嘴の所」を意味する。銭函は「金箱」を意味する日本語名である。
1905年刊行のバチェラーの辞典に印刷された読みと語義。分節はバチェラー自身のもので、その要素のいくつかは辞書の見出し語に対応しない。
用例
- 銭箱 文献 Edo period 西蝦夷日誌
銭箱、これ和人名なり。この処、鯡多くしていつも漁事ありてよろしき故、かのごとく名付けしものか。
松浦武四郎はこれを和人名とし、鯡の漁と結びつける。
zenibako_trek… - ゼニハコ 文献 1857 入北記
ゼニハコと申すも村名にあらず。古よりこの所は運上金外の場所にて、ヲタルナイの銭箱と云うことにて村名同様になるたる由
玉虫左太夫は村名ではないとし、古くから運上金外の場所であったため「ヲタルナイの銭箱」と呼ばれ村名同様になったと記す。
zenibako_trek… - ヤウシノツカ 地図 1821 伊能図
文政4年に完成した伊能図はここを「ヤウシノツカ」ya-us-nupka〈網のある丘〉と称する。恵比須屋が銭函に漁場を設けた天保9年より17年早く、隣の張碓よりも多くの建物が描かれている。
zenibako_trek…
関連地名
- ヲタルナイ おたるない — ota-ru-nay〈砂浜の道の川〉。現在の手稲を流れる新川河口付近にあった川の名で、その地は今の銭函三丁目にあたる。そこでは主に鮭を穫っていた。運上屋がクッタルシへ移った際に地名も移った。オタネ沼が旧ヲタルナイ川の痕跡である。 zenibako_trek…
- 張碓 はりうす — 隣の漁場。銭函よりずっと早く開かれながら、伊能図では建物が少ない。天明・文化年間の記録では二八小屋は張碓の礼文塚までとされる。 zenibako_trek…