アイヌ語形態素エクスプローラ

派生過程一覧

形態素データベースの語源・構成欄で参照される言語学的過程.

ゼロ派生(zero-derivation)

形態論語形成結合価

アイヌ語では,形態的標識を伴わずに語根の文法範疇が転換されることがある.佐藤2020 によれば,これは「カテゴリーの転換」のうち最も中核的な型であり,動詞と名詞,名詞と位置名詞,自動詞と副詞的表現の間で交替が見られる.典型例は,1項自動詞(アリティ +1)が抽象名詞として再利用される場合で,動詞としての項は名詞用法では消失する.したがって本データベースでは,この過程を語源チェーン上で −1 と注記している(動詞用法のチップに +1,派生先の名詞用法には動詞的アリティを付さない). 例: ・nu(vi, +1)「聞く・感じる」→ nu(n)「目」(cf. nu-pe「目+水=涙」,nu-kar「目に作用する=見る」) ・itak(vi, +1)「話す」→ itak(n)「言葉・言語」 ・kar(vt, +2)「〜に作用する・〜を作る」→ kar(n)複合語中で「作られたもの・行為」 参考文献:佐藤2020「アイヌ語における文法的カテゴリーの転換について」

佐藤2020アイヌ語における文法的カテゴリーの転換について田村1996アイヌ語沙流方言辞典【自動/名】

この過程で分析される語

重複(reduplication)

形態論語形成

アイヌ語の重複には三つの型がある(『アイヌ語と日本語』§4, p.206;中川2024:204–208). ・語根 (C)V(C) の完全重複——反復・分配・複動作:suye「ゆする」→ suysuye,kar「ころ(擬態)」→ karkar(-se),kik「打つ」→ kikkik「何度も叩く」.項構造は保持され,しばしば使役 -ke / -e が後接する(moymoyke「いじる」,yupyupu「ぎゅっと締める」). ・CVC 語根の頭子音を除いた VC のみの部分重複——小刻みな・少しずつの動作の継続的反復:cirir「したたる」. ・閉音節語幹の最終音節の重複——動作の結果状態の持続:hepoki「頭を下げる」→ hepokiki「頭を下げている」. 重複した擬音・擬態語根は音象徴の体系につながる(-se「音を発する」).重複境界では連声が起こる(t+s→c:ketketcep「雨蛙」< *ket~ket-se-pe). 参考文献:佐藤2008中川2024『アイヌ語広文典』204–208;Shiraishi 2022;田村すず子「アイヌ語と日本語」p.206;坂口2021「アイヌ語のオノマトペ」.

佐藤2008アイヌ文法の基礎中川2024アイヌ語広文典 204–208grammar.aynu.org: reduplication phonology田村2013アイヌ語の世界阪口2021オノマトペに由来するアイヌ語の語彙

この過程で分析される語

接辞付加(affixation)

形態論結合価

アイヌ語の派生体系の中心は,明示的な接辞付加 ——項構造を変化させる生産的な接頭辞・接尾辞——にある.これらは語源フレームではなく,その上にある共時的な構成(Composition)木の中に直接示される.語源フレームは共時的に透明でない分析を扱うために用いる. 本データベースが扱う生産的な接頭辞:i-(不定目的語),e-(充当「〜について」),ko-(充当「〜に対して」),si-(間接再帰),yay-(直接再帰),u-(相互). 生産的な接尾辞:-e / -re / -te(使役,+1 使役主),-yar / -ar(不定使役,アリティ中立),-pa(動詞複数). 参考文献:ブガエワ2014「アイヌ語使役構文に関する再考察」(使役体系),佐藤2007「アイヌ語千歳方言の再帰接頭辞yayとsiについて」(再帰接頭辞).

ブガエワ2014アイヌ語使役構文に関する再考察佐藤2007アイヌ語千歳方言の再帰接頭辞yayとsiについて

この過程で分析される語

Verb formation / causative–anticausative pairs

形態論結合価語形成

Bugaeva-aligned map of Ainu verb derivation: APPL and CAUS expand a stem; ANTIP, REFL, REC, AUTOC, ANTIC, MID/RES and REFL.POSS reduce or rearrange it. The dedicated table separates -ke (ANTIC/INTR.SG) from -ke (TR/CAUS.LEX), si- on verbs (AUTOC/ANTIC) from si- on nouns (REFL.POSS), and ci- as middle/resultative.

Verb formation tableBugaeva 2025 A diachronic study of anticausatives in AinuWikipedia: Anticausative verbWikipedia: Autocausative verb

名詞抱合(noun incorporation)

形態論語形成結合価

名詞が述語内部に取り込まれ,内的項を満たして外側に残る結合価を小さくすることがある.構成木では,名詞的な構成素が動詞的な主要部と密接に結合する場合に抱合として示す. 例: ・cep + koykicepkoyki「魚を捕る」(cep「魚」が対象として抱合される) ・aynu + koykiaynukoyki「人を攻撃する」 ・nu(n)+ karnukar「見る」(「目+〜に作用する」という歴史的分析) これは単なる音韻変化ではなく,述語の項構造にも関わる形態論的過程である.

佐藤2008アイヌ文法の基礎

この過程で分析される語

名詞化(nominalisation)

形態論語形成

述語や節は,とくに -p / -pe によって名詞化される.本データベースでは,名詞化接尾辞 -p / -pe と,同音の名詞 pe「水」とを区別する. 例: ・an + -peanpe「存在するもの;真実」 ・e + -pep / aep「食べ物,食べられるもの」 ・e- + inkar + -peeinkarpe「見るためのもの;目」 ・sapa-un + -pesapanpe「頭の上にあるもの;冠」 結果の語彙素は,構成要素に拘束接尾辞を含んでいても,辞書上は独立した語になりうる.

佐藤2008アイヌ文法の基礎

この過程で分析される語

文法化(grammaticalisation)

形態論通時

本来の語彙的意味を持つ語が,より文法的・機能的な要素として再解釈される過程.共時的な独立用法では本来の意味が保たれる一方,複合語の内部では「軽動詞」「文法的演算子」として漂白された意味を持つ.語源チェーン上では,複合語中の用法が独立語と意味的に大きく乖離する場合にこのラベルを付す. 例: ・kar(vt, +2)「〜に作用する/〜に対して何かをする」(複合語中の用法:nu-kar「目に作用する=見る」,e-kar-pe「〜を作ったもの」)← 文法化 ← kar(vt, +2)「〜を作る・〜を作製する」(独立用法).複合語中の kar は「作る/作製する」から「〜に対して何かをする」という汎用的な演算子へと意味が漂白されている. 参考文献:佐藤2020「アイヌ語における文法的カテゴリーの転換について」.

佐藤2020アイヌ語における文法的カテゴリーの転換について

この過程で分析される語

融合・語彙化した縮約(fusion)

音韻論形態論縮約

融合とは,透明な分析段階が音韻的に縮約し,より短い語彙化した形になることである.表面形が単純な連結からは復元できなくなる場合がある.融合そのものは,必ずしも結合価を変えない. 例: ・i- + nukar*inukarinkar:中間の /u/ が脱落する.i- による逆受動化はすでに済んでいるので,*inukarinkar も自動詞的(+1)である ・(ci= e) + -pcep:人称接辞+動詞+名詞化接尾辞の列が「魚」を表す語へ縮約する ・sapa-un + -pesapanpe:「頭にあるもの」という透明な段階から語彙化した名詞になる ・paye + okapayoka:複数「行く」+複数「いる」が語彙化した移動動詞になる

通時音韻

この過程で分析される語

同化(assimilation)

音韻論連接音変化通時

同化とは,ある音が隣接する音に似ることである.本データベースでは,主に形態音韻論や方言的音変化の注記として扱い,結合価そのものとは区別する. 例: ・n + p / n + k の環境では,音声記述上,鼻音の調音位置が [m] や [ŋ] に近づくことがある ・樺太系資料では語末・音節末 /r/ が n/t/r の前で同化することがあり,比較層では kor + -tekonte のような対を記録する ・東部方言のクラスター同化として tk → kk,pt → tt,rs → ss などが記述される 重要なのが「隣接音への類似化」である場合にこのタグを用い,脱落や融合とは区別する.

通時音韻

異化・差異化(dissimilation)

音韻論通時

異化とは,同じまたは似た音が近くにあるとき,一方がより異なる音になる傾向である.現段階では,このタグは,将来の精密な注記で「同化」や「融合」を誤用しないための分類として用意している. 現在のアイヌ語データでは,むしろ対照例が重要である:moymoy は重複であって異化ではない;inkar は融合であって異化ではない;ko- + i- 系の y は挿入・母音連接処理であって異化ではない.肯定的な異化分析は,出典が明示的にそう論じる場合にだけ追加する.

通時音韻

弱化(lenition)

音韻論縮約通時

弱化とは,子音が h になったり,調音が弱くなったり,消えたりすることである.比較層では,出力が隣接音に似るというより弱くなる場合,同化とは分けて扱う. 例: ・樺太西部型の資料では語末 /r/ > h:utarutah ・子音前 /r/ > h の例として unarpeunahpe が記録される ・h の弱化・脱落は,共時的な形態素境界ではなく通時的音変化として扱う 子音の弱化にはこのタグを用い,母音の脱落には「母音脱落」を用いる.

通時音韻

母音脱落・中略(vowel loss / syncope)

音韻論縮約

母音脱落とは,語内部の弱い母音が消えることである.アイヌ語データでは融合と重なることが多く,失われた母音によって表面形が透明な構成より短くなる. 例: ・*inukarinkar では中間の /u/ が脱落する ・sapaunpesapanpe では sapa-un-pe の透明な段階から中間母音が落ちる ・(ci= e)-pcep では ci/e の連続が縮約する 結果が語彙化した語である場合,表面語と母音脱落前の段階の両方を見える形で残すのが望ましい.

通時音韻

挿入・渡り音(epenthesis)

音韻論連接音変化

挿入とは,発音しにくい境界を修復するために音を加えることである.アイヌ語の形態音韻論では,母音や接頭辞の境界に y 的な渡り音が現れる場合が目立つ. 例: ・ko- + i- + karkoykarko-i- 始まりの要素の間を y が橋渡しする ・a= e- ipe -paeypep:e+i 境界が y 的に表面化する ・o- + ipe + -poypep:o+i も oy として表れる これは音韻的な境界修復であり,結合価への効果は各形態素の側にある.

通時音韻

音位転換・語順化した音韻変化(metathesis)

音韻論連接音変化

音位転換とは,語内または方言対応の中で音の表面順序が入れ替わることである.多くの見かけ上の入れ替わりは,普通の接辞スコープと融合で説明できるため,出典のある例・語彙化した例に限って用いる. 規則的な方言対応: ・美幌・釧路型の -iw ↔ -uy:siwnin ~ suynin「青い・緑」,ciw ~ cuy「突く」,nociw ~ nocuy「星」,riwka ~ ruyka「橋」. 語彙的な例: ・askepet ~ aspeket「指」(幌別).身体部位では最も明瞭な例. ・piyar / puyar ~ puray「窓」,nipek / nupek ~ nikep「光」. ・nuykes < niwkes「〜できない・しきれない」,oktus / ottusu < oksut「うなじ・えりくび」,ponuyne < poniwne「年下の」,urumek < u-murek「夫婦である・夫婦になる」. ・接触に伴う例:ratcaku「灯火」は樺太で cahraku となり,語頭 r の音位転換として説明される. 出典側が疑問を付ける候補は主例にはしない.たとえば siompuray < siyom-puyar は「か」として挙げられるため,参考にはなるが確定規則としては扱わない.

Nakagawa & Fukazawa 2022服部1964アイヌ語方言辞典通時音韻

この過程で分析される語

名詞複合(−1 + −1 = −1)

形態論語形成

名詞と名詞が複合しても結果は名詞であり,結合価は加算されない.本データベースの規約では名詞は −1(抱合により動詞の項をひとつ飽和させる能力)を持ち,N+N 複合語もちょうどその能力を保つ:nupe「涙」= *nu「目」+ pe「水」は −1 + −1 = −1 である.複合は意味を合成するのであって項構造を合成するのではない.項の増減は動詞向けの操作(充当接頭辞・使役・動詞化辞 -ke の +1 など)だけが行う. 例: • nupe「涙」= *nu「目」+ pe「水」 • notakam「頬」= nota「頬」+ kam「肉」 • Aynu itak「アイヌ語」= Aynu + itak

この過程で分析される語

所有者繰り上げ(被所有名詞の抱合)

形態論結合価

抱合される名詞が本来的に被所有である場合,その所有者が動詞の項構造に入る:名詞が動詞の被動者項を飽和させ(−1),所有者が新たな目的語として現れる(+1)ため,他動詞は他動詞のままとなる.yepnu「(人)の言うことを聞く・従う」= yep「言うこと」(< ye「言う」+ -p 名詞化.名詞化の時点で項は飽和済み)+ nu「聞く」:「X の言葉を聞く」→「X に従う」で,X が目的語になる.身体部位抱合で部位の所有者が目的語になるのと同じ機構であり,uitaknu「互いに言うことを聞く」は繰り上がった所有者項を相互接頭辞 u- が飽和させた形である.

佐藤2008アイヌ文法の基礎

借用・翻訳借用(borrowing / calque)

通時語形成

借用語は他言語からアイヌ語に入った語で,アイヌ語内部の形態素分析ができない.語源チェーンは在来の形態素の代わりに供給言語の語形を指し,チップには言語名タグが付く.翻訳借用(calque)はその逆の構成で,在来の形態素を外国語のモデルに沿って組み立てたもの.主張の確度は他のリンクと同様に等級付けされる. 例: ・notak「刃」⇐ 朝鮮語系 *nʌt(ʌ)k(中期朝鮮語 nolh 날「刃」).上代日本語に見られないため,日本語を介さない直接接触と読まれる.対立する説として,朝克(2001)はエヴェンキ語 kotaku~kotak「刃物」との共有名詞とみなす(語頭 n :: k の対応). ・menoko「女性」⇐ 日本語 めのこ【女の子】. ・matnepo「娘」= mat-ne-po「女・である・子」.内部分析は完全に可能だが,め-の-こ「女-GEN-子」のモデルに基づく翻訳借用の可能性が指摘される(モデル語自体は menoko として借用されている).

朝克2001アイヌ語とエヴェンキ語の伝統的共有名詞についてまくぽり2024日本語からアイヌ語に入った借用語notak family